児童養護施設出身大学生

よろしくお願いします。 いつもありがとうございます。

差別についての授業をきいて -2-

こんにちは。読んでくださりありがとうございます。

この記事は『差別についての授業をきいて』の後半になります。

 

前編でお話ししたように、差別というものは場所を問わずに起こりえます。またそれは、本人の努力ではどうにもならないことがあります。

 

実際私の場合には、高校受験時にそれを感じることがありました。

 

施設にいる子どもは(親族が負担する等の場合を除き)基本的には私立高校に進学することはできないため、一般的な『すべり止め受験』ができず、公立高校のみを受験します。そこで合格しなければ、施設からは出ていかなくてはいけません。

 

私は、合格しなければいけないという考えのもと、自分の実力でおおよそ受かるであろう(偏差値が自身のそれより10程度下の)学校を受験しました。

 

それでも受験前の願書を作成する時期に、当時通っていた塾の先生から、

「(施設にいるという理由で)落とされるかもしれない。」と言われ、驚きました。

私立ならまだしも、公立の高校でそのようなことがあっていいのかと思ったと同時に、施設というものに対する偏見や差別のようなものも感じました。その先生は、(たとえ公立でも)そういうことはあるよ。と言っていて、これ以上どう対策しようがあるのかと思ったことを覚えています。

3年間部活をし、委員会では委員長を務め、遅刻も早退も欠席もしませんでした。その努力も評価されないなら、差別というものは、人の心を殺し、明日への活力を奪っていくのではないのかと思いました。

 

結局私は志望校に合格し、落とされるかもしれないと言われた高校で、実力テストでは学年一位を取りました。

 

 

このように、本人の実力がどうであれ、往々にして差別を感じる環境だったことは事実です。

 

施設というものは閉鎖的な環境であることが多く、あまり関わりのない世間から見たときにはよくわからないものであり、ときに恐れという感情を生じさせることもあると思います。これは私の個人的な考えですが、人は、自分が理解できないものに対して恐怖心を抱くのではないかと思います。そしてそれは他者にも伝わります。

そのようなハレモノ的な扱いや態度が子どもたちに与える影響というものは、考えなければなりません。

 

差別をしないため、受けないためにはやはり、積極的な理解に努める姿勢が必要かと思います。

自身を伝える勇気や、他者の置かれた状況に対する想像力を持つことで、相互理解が深まるのではないかと思います。

 

そんなことを思いながら、思い出しながら、大学での講義を聴いていました。

 

それではまた。

 

差別についての授業をきいて

こんにちは。

いつも読んでくださりありがとうございます。

 

今回は、大学で障害者に対する福祉制度についての授業を受けた際、その授業の中で、《障害者福祉だけではなく他の福祉にも必要な視点ではないか?》と感じたことがあったので、それについて書いていこうと思います。

 

 

それは、《差別》についての講義でした。

授業では、さまざまな事例も見ながら学んでいき、〈なにが差別となるのか〉、〈日頃無意識のうちにどのような差別をしてしまっているのか〉という事について、深く考えさせられました。

 

たとえば、

 

・どんなに優秀な成績を取っても障害者だからという理由で就職ができない

・〈一定割合の障害者を雇用しない企業に対して罰金を科す〉という要請があっても、就職希望者を雇用せずに罰金を払う企業の方が多い

・差別を肥大化させるような表現をするメディアや媒体を通じたメッセージ性のあるもの

 

これらのすべてが差別です。

 

 

今回私が学んだのは障害者についてでしたが、ほかの分野でも、あるいは、児童福祉においても言えることなのではないかと思いました。

 

一般市民を扇動するような報道や番組(ドラマもでしょうか?)、偏りのある解釈、本人の努力や実力とは関係なく狭まる進路。

 

これは、理不尽と言えるのではないでしょうか。

 

 

ーこの話は、続きをまた更新しようと思います。

 

 

頑張る人に。疲れた人に。

とても久しぶりに記事を更新します。

なにかのきっかけになれたら嬉しいです。

 

いま、新型コロナ感染症(covid-19)の影響により、多くの人に疲れが出ています。私の周辺も例外ではなく、私が通う大学では、オンラインで講義を行っています。ロックダウンが続く国があったり、最低でも2週間の隔離生活、所得の低下により経済活動が落ち込むなど、様々な組織やシステムが変革を余儀なくされているような印象を受けます。

 

変化していくことを考えたとき、ふと、物理の授業を思い出しました。

 

物理では、物体の運動方向を変えるときの抵抗を、《慣性の法則》を通して考えます。慣性の法則を私なりに言い換えると、“現状維持”です。

その法則に当てはめて考えると、物体を動かすためには外側から働きかける力が必要です。そして実際に動くときは、現実世界であれば摩擦が生じます。変化には負荷が伴うということです。

 

まるで、いまの人々のようだなと思いました。

 

コロナショックとも呼べるような状況で、ルーティンの継続が難しくなり、非日常に対応しなければならず、経験したことのない出来事に直面し、各々の個人が抱えるストレスは相当なものになっていると考えられます。これまでの日常の維持が難しく、変化を要する。人間心理の観点から考えても、変化に対応する上で生じるストレス、そしてそのストレスがもたらす精神や生活への影響は少なくありません。

また、企業や業界によっては、今までのあり方を見直し、大幅な改革を実行する所もあるでしょう。

 

すでに負荷が生じています。

 

コロナが収束し、自粛が終わったとして、生活が元通りになる可能性はどのくらいでしょうか。

ストレスや不安から混乱が生じ、その中で生存していく道を掴むことは容易ではなく、ときに衝突もあるかもしれません。

その時を迎えたら、予想していた未来とは違ったという人が多いのではないでしょうか。

 

あえて言うのであれば、、

この混乱前の日常、“今まで通り”を目指した場合、もしかしたら、むしろ失うものが多いのではないかと思います。無いものをあったことにも、あった事を無かった事にもできません。人との関係を考えても、切れる関係もあれば、より深まる関係もあると思います。変化した後の世界で、なにも変化していない生活を望むことは難しいでしょう。

 

そう考えたときに私たちに必要なのは、『回復』ではなく『改革』であるような気がします。

 

これほど大きな出来事を世界中の人が共有したいまはむしろ、チャンスとも呼べるのではないでしょうか。積み上げてきたものがなくなった代わりに人の痛みがわかるようになった人は、決して弱くはないと思います。

 

もちろん、一週間先、半年後、二年後が見えず、家族はおろか、自分一人の身でさえ安全とは言えないのに。。という人も出てくるでしょう。

しかしそれもまた、揺れて変化していく人生の生き方だと思うのです。

 

人生には正解も不正解もないという意識を、頭のほんの片隅にでも置いたとき、少し心が軽くなるでしょう。

 

なにかを“失った”ということは必ずしも、“失敗した”ということでも“負けた”ということでもないのです。

“負け”とは、負ける相手とは、過去の自分以外にはいないのではないでしょうか。

 

私たちは、生まれてから死ぬまでの間に絶えずオリンピックに出場しているわけではありません。過去の偉人や、これから現れる天才と張り合うわけではなく、ただ自分と向き合い、自分が愛せる自分でいるだけです。そして、愛すると決めたものを愛し続けていくのみの人生です。人ってそんなに器用じゃありません。

 

そして、なにかを達成するよりも、人としての美しさを損なわずに生きることのほうが難しかったりします。奪うよりも、むしろ譲る人のほうが強く、そして美しく見えます。見えるだけではなく、きっとそうでしょう。

 

そんなことを言ったところで、生活が立ち行かなくなるということも、大切な人を失うという大きな悲しみを、避けられない人もいるでしょう。

 

癒えない傷もあり、会えない人がいることは、人生の中でも特に深い悲しみであり、痛みです。

 

『時が経てば』とはよく言いますが、時間は必ずしも、すべてを解決してくれるわけではありません。戻れない日も、掴めなかった未来も、解けない想いもあります。

 

私たちは、自分が生きた道を正解にしていくしかありません。

 

過ぎたことを追わずに新たなステージで頑張ったり、捨てられない過去があれば、それを持ちながら生きていくというのもまた、一つの生き方でしょう。

 

どうかご自身を大切にしてほしいと思います。

自分のことを好きになって、好きでいてください。

 

生命の維持ができても、心が死んでしまっては、どうにもなりませんから。

 

自分を大切にして、自分を大切にするように人も大切にできる人が、良い連鎖をつくっていきます。その連鎖を絶やさなければ、勝ち負けでははなく、打算でもなく、醜く争わない、健康的な人生を送ることができます。

そんな中に身を置くことができる環境がどうかあるように、ないなら、それをつくっていける人になれるように。

 

強くて優しい人が増えればいいなと思います。

毒親だって、泣いている。

こんばんは。おひさしぶりです。

読んでくださり、ありがとうございます。


このブログは、『児童養護施設出身大学生』という名で運営していますが、私は、児童養護施設に入所してからはもちろんのこと、それ以前や、退所後も、いろいろな人と出会い、さまざまな環境を経てきました。


日々、どうしたら児童福祉の現状を改善していけるのかを考えながら、その気持ちを行動に移したり、知識を蓄えたりしています。


施設在所当時は、たくさんたくさん泣きました。その時に流した涙は、私の受けた傷でもあり、それまで癒えることのなかった、他の人が感じた過去の痛みも含まれていたと思います。



今でも泣くことがあります。同情とはまた違うものですが、今そこにいる子が、それを経た人が、どんな気持ちで生きているんだろうと思います。心が引き裂かれるような子が、誰のことも、なにも信用できなくなる子が、もっと増えてしまうかもしれない。人の温もりを初めて知る子もいるでしょう。それでもやっぱり、家庭が一番です。希望して施設に入る子はいません。


親だって泣きます。苦しみます。毒親毒親なりに、痛みを抱えたひとりの人間です。


児童福祉と言うと、子どもを救うイメージが先行してしまいがちですが、その親を取り巻く社会環境は、はたして。


過去を振り返るだけではなににもなりませんが、過去から学ぶべきところは、たくさんあると思います。


子どもだけ救えばいいわけではありません。その子どもや、私たちが親になった時、そんな所まで考えることができてこそ、児童福祉と言えるのだと思います。子どもは国の宝です。子どものように純粋で素直な気持ちを、いったいどれだけの現代人が持っているでしょう。


明るい未来が待っているようにと、祈るような気持ちです。


人を貶めなくても、傷つかなくても、私たちは幸せに生きていけるはずだから。生まれたての綺麗な心を、ずっと持っていていいはずだから。


もうそろそろそれを叶えてもいいのではないでしょうか。


平成終盤に、そんなことを思っています。


元号が変わるころに、新しい報告ができると思います。それが、未来への希望となるように、日々精進していきます。


涙が溶ける日が、早く来るといいな。と、そんなことを思いながら。

未来を考える者として

こんばんは。いつも読んでくださり、ありがとうございます。


今に始まったことではありませんが、この時代に生きる者として、しばしば、未来が心配になります。時代の恩恵に恵まれと言うか奪われと言うか、考えることなく生きる人が多いように感じます。


正直、「無関心」な人が多いです。社会に対して、人に対して、



自分に対して。

ただ娯楽に走るだけ。


趣味はいいことだと思います。人間、楽しいことや希望がないと、人生をつまらなく感じてしまいますから。


しかし、それのために生きてしまう人もいます。もはや趣味ではなく、「利用されている」と、言わざるを得ないのではないでしょうか。誰かを幸せにするためではなく、自分が満たされることを目的に、主体をそれとして、他のことをする。経済を回してくださるのはありがたいのですが、なんかちょっと違うよな。と、思うのです。


否定するわけではありませんが、前に挙げたもののように、「愛」とか「優しさ」とか、「善」とか。犯罪とまではいかなくても、良いものから遠ざかってしまうような生活は、知らず知らず、多くの人がしているのではないでしょうか。



「〇〇の言ってること、難しくてよくわからない。」


私が同年代の人に、しばしば言われる言葉の一つです。こちらの話し方も、あるのかもしれません。

ですが、対象を変えて、ある程度歳を重ね、経験を積んだ人と話をすると、まあ理解してもらえる。


これは私の話し方だけの問題だろうか。ふと、疑問に思いました。


そして、若い世代の人を見てみると、難しいことを理解するための努力すらしていない人が多くいることに気づきます。ニュースすら見ない。知っていることと言えば、芸能人のスキャンダル程度。それはわからないよな…と、半ば、呆きれにも似た感情を抱きます。


私は経験上、社会的なことをよく話します。変わってほしいことがある。幸せになってほしい人がいる。明るい未来であってほしい。それを求めることって、そんなに悪いことでしょうか。


文句を言いながら出した税金が、何に使われているかも知らず、または、知ろうともしないのに、後々当事者になったころにまた文句を言う。それまで向き合ってこなかったのにです。


情熱があっても、(でも自分の力なんて小さいし。)とか、(どうせ社会は変わらない。)とか、諦めそうになる気持ちも、理解できます。変わりそうにないものを変えようとすること、待ち続けることは、簡単ではありません。また、それに繋がるきっかけがなければ、意思を強く持ち続けることは難しいでしょう。


でも、じゃあ今、心の底から笑えているのかと聞いたとき、胸を張って、そうだと言える人が、どのくらいいるでしょう。そこそこな幸せでいいなんて、私には理解できません。というより、したくもありません。


その諦めや無関心によって、また笑えなくなる人が増えるから。もっと言えば、自分たちに返ってくるから。


私たちってそんな事のために生まれてきたんですかね。


「生まれたくて生まれたわけじゃない。」

そんな声が、聞こえてきそうです。でもそれって、ほとんどの人が言えることではないでしょうか。


それなら、生まれてきた理由を、自分で見つければいい。見つけなければ、一生、何者にもなれず、漂うだけです。そんな虚しい人生ありますか。


怒りとか悔しさとか、あっていいと思います。そこまでいかない人は、人間性を、豊かにしてほしいです。完璧な人なんていなくても、努力なら、いくらでもできると思います。むしろ、そのためのコンテンツは揃っていると言っても、過言ではありません。


恵まれた時代の恩恵を、有意義に使ってくれる人が増えることを、願うばかりです。

出身者としてできること

こんばんは。おひさしぶりです。

今回は、施設在所当時を、少し振り返ろうと思います。

私のいた施設では、15人の児童の面倒を、1人の職員が見ていました。

もちろん手が回るはずもなく、さまざまな面で、不足していました。


福祉と言えど、子ども一人ひとりの生活、命を抱えています。どれか一つをないがしろにしていいなどということはありません。

職員にその意図は無かったとしても、“愛してもらえていない”という感覚は、それぞれの子どもたちが、感じていたと思います。


私はある時、「15人の子どもに対して1人の職員しかいないのは、おかしいんじゃないか」と、言いました。不満ではなく、意見としてです。

だってどう考えても、おかしい。一般家庭でもそんな人数の世話はできない。ましてや、専門的なケアを要する子が多い施設です。

職員には、「じゃあ法律を変えるしかないよ。」と、言われました。現行の児童福祉法で定められている職員配置基準は守っていると言うのです。

職員からも提言をしたりしているけれど、変わらない現状があるとも言われました。現場で働く人の声が届かないのなら、誰の声が届くと言うのでしょうか。当事者の子どもたちとでも言うのでしょうか?

施設で暮らす子どもたちは、人生に対して、前向きではない子が多かったように感じます。諦めてしまっているのです。

当時は、社会の難しさ、ままならさを感じました。今もです。

私が対処した今でも、その中で生活している子がいます。家族に会えない場所で、愛を求められない場所で、そんな中で生きているんです。

そんな生き方は悲しすぎます。それでも、そんな環境に置かれた子が、まだまだいます。

せめて法の部分から変えることはできないものか。そう思っています。

個々にそれぞれの感じ方はありますが、施設出身という立場として、私にしかわからない痛み、受け取ったありがたさが、あると思っています。

すぐに、大きなことができるわけではないです。児童養護施設は、まだ閉鎖されていると、言わざるを得ません。

それでも私は、こうしてブログを書いています。なにか伝えられるものがあるはずだと思っています。でもそれが、一方的なものになってしまってはいけない。
気を遣わない人ほど疎ましい存在ってありませんから。

社会に対して、人に対して、一方的な押し付けにならないようなシステムを、考えています。

もっともっと、それぞれが生きやすくなるように、今日も頑張っています。

応援していただければ、幸いです。

大学っていいところ?

こんばんは。読んでいただき、ありがとうございます。


今回の記事では、大学について少し、触れてみようと思います。



『大学』と聞くと、なにを思い浮かべるでしょう?または、どのような印象を抱きますか?


高校生の頃の私は、大卒のカードを手に入れないと生きていく能力がない人が行くところなのではないかと思ったことがありました。


それ以前には、大学に対する憧れや希望があったのですが、近づくにつれて、どうもそうではないような感覚を覚えました。就活までの期間を延長するために大学に入る人も、中にはいるのではないでしょうか。



私は、とある東証一部上場企業の方に就職を打診されながらも、大学に進学することを選びました。自分の夢に繋がると思ったからです。そうでないなら、行かないほうがいいかもしれません。知人に、某有名・難関大学を卒業した大学教授がいるのですが、その大学すら、勧めてはいませんでした。また、職業柄、長年、数多くの人と関わってきた知り合いがいますが、その人に聞いても、「大学に行ってよかったって言う人はいないよ。笑」とのことでした。


なぜ、そうなってしまうのでしょう。努力し、お金と時間を使ってまで通う大学は、元が取れないものなのでしょうか。


目的意識があるかどうかで、その価値は、かなり変わってくると思います。


もちろん、大学生としての生活を楽しむ人も、中にはいるでしょう。。自由、サークル活動、アルバイト、(ほとんどの人にとって)人生で1番長い休暇期間。ここで楽しまなければいつ楽しむのかと言うほど、人によっては、夢のような生活です。


しかし、安心しきっている人がどうなるのかは、想像に難くないと思います。


なんとなく講義を聞き(もしくは座っているだけ)、課題やテストに追われ、気がついた時には、逃げに逃げていた就活が目の前に…。



そうならないためには、なぜ大学に行くのか、なにを学びに行くのかを、明確にする必要があります。軸が無ければ、辛くなったとき、すぐに折れてしまいます。折れてしまう前に、手放して、逃げてしまうことすらあります。



今までは、小学・中学の義務教育の後、高校に通い、卒業して、現役で大学に合格し、その後は就職して、生涯働くということが、パターンであり、安定であり、理想であり、当たり前だったと思います。その道は、多少の石はあれど、歩きやすいものです。



それが今や、変わりつつあります。一生勤めていくことができる会社というものは、もうありません。誰かが作った道、敷いたレールの上を、組織にぶら下がって生きていけるほどの安定は、どこにもありません。



力をつけている人の中には、起業する人もいます。学歴は、あまり関係ありません。やりたいことをできるなんて、素晴らしいと思います。しかし、『好き』という感情や、お金儲けのためであれば、そこまで突き抜けることはできません。長くは続きません。起業した後にも、振り返る必要はあるのです。



機械が多くのことをできるようになった今、持つべきものは、スキルではなく、人格です。自分の将来の種となるものが何も無い中で、環境だけ整えたところで、誰かの真似事しかできません。私たちは、そんな空虚な時間をやり過ごすために生まれてきたわけではありません。


現代のこの競争社会は、勝ち抜くことはおろか、ついていくだけで精いっぱいになってしまいます。誰かに勝つためだけに人生を消費することは、賢い行動とは言えないでしょう。その先にあるものは、負けられない焦りと、勝ち続けなければならない恐怖だけです。


ぜひ、自分にしかできないことを見つけてください。特別なものは、なにも持っていないかもしれません。自分みたいな人間が一人頑張ったところで、なにになるのかと、そう思う気持ちもあるでしょう。


しかし、自分以外の何かと比較しなくても、輝ける場所が、一人ひとりにあるはずです。

残念ながらその場所は、誰も教えてはくれません。

探して、見つけ出してください。それは、いつの時代も変わらず、人間がやるべきことです。


私の場合には、大学に行きました。そこにしか無かった出会いが、いくつもありました。人生は、点と点が繋がって、できていきます。

そうでなかったのなら、いくら大学と言えど、お金と時間と若さと、自ら思考する力を奪うだけのものになっていたでしょう。


自分の居場所を見つけ、そこで輝く努力をし、すべて杞憂だったと思えたのなら、人生は勝ちです。


勝って、笑いましょう。