児童養護施設出身大学生

よろしくお願いします。 いつもありがとうございます。

日々の生活をちょこっと

こんばんは。

いつも読んでいただきありがとうございます。


このころ寒くなってきて、外に出ると、縮こまってしまうような日が増えました。とは言っても、女子高生を想像すると、あの服装よりは寒くないかな。と思えます。(笑)


それと同時に、当時の自分を振り返ったりした時に、外界はもちろん、心の中にも冷たい影が吹いていて、あれはたしかに孤独だったなと思います。その時に比べると(比べることがいいとは思いませんが)、現在の方がまだ、恵まれているのかなと思います。



冬の寒さは、孤独をさらに孤独に思わせてくれます。(笑)一人で立つのは簡単ではありませんでした。




最近Twitterで、施設に在所している人のツイートを目にしました。

そこには、私が忙しさの中で記録することができなかった当時の気持ちやしんどさが書かれていて、共感する部分が多々ありました。



人間は弱いです。痛みを忘れてしまいます。すごくすごく苦しかったはずなのに、無かったように、壊れながら、振る舞ってしまいます。



私は今、大学にも通っていて、周りの人に恵まれていますが、そんな幸せを享受しながらも、同時に、痛みや苦しみを忘れてしまわないように、生活水準の調節に努めています。



今もまだ、孤独に震えている人に対して、心を痛めるばかりです。


まだ大学生か、もう大学生か。未来の自分は、どう在りたいか。色々と考えながら過ごす日々です。



待った無しの、リハーサルなしの、人生という舞台に放り出された子どもたちが、思いわずらうことなく、その舞台を楽しめるように。そんな世界を少しでも、いえ、大きく、開いていけるように。


コメントも、お待ちしております。

教育

こんばんは。お久しぶりです。

いつも読んでいただきありがとうございます。



さて、私が通っている大学は、もうそろそろ定期考査が始まります。ちらほらと勉強し出す学生も見受けられるようになりました。


大学構内の図書館は、テスト期間になると人が多くなります。私は幼少期から図書館というものが好きだったため、今でも行かない日はほとんど無いのですが、本を読むわけではなくても、あの空間は、やはり過ごしやすいのでしょう。落ち着ける環境を、いつか私もつくりたいです。

なんでもかんでも環境のせいにするのはよくありませんが、やはり、環境づくりは大事です。



施設は、なかなか勉強しにくい環境だと思います。


さまざまな事情の子どもがいる中で、ラウンジで勉強することは、とてもできません。個室(自分の部屋)で勉強しようにも、ドアも壁も薄く、あまり意味がありませんでした。(夜になって寝るときにも、隣の部屋の話し声が聞こえてきたり、ドアの外の光が入ってきたりして、なかなか眠れませんでした。)


高校受験を控えた中学生は塾に通うことができるのですが、立地にも制限があり、私の場合、当時希望した塾には行かせてもらえませんでした。

また、塾に行くと言って外に出て、別の場所で遊んで帰ってくる子もいました。塾にかかる費用は、元を辿れば国民が納めた税金です。


施設内では、勉強机の数に限りがあり、争奪戦でした。勉強に対しての意欲がある子は少ないのに、そんな子には机が回らない。

眠れない、勉強ができない。そんな環境に、門限(中学生の場合は18時)までには帰ることを強制される。学生としては最悪な環境でした。



そして、高校受験では、公立高校に行く場合でも、多くの人が受けるであろう私立受験(滑り止め)を、受けることができません。もちろん滑り止めですから、一般でも、大体の人はその後の受験で公立高校に行きます。


施設の子が私立高校を受験できない理由は、私立では、国や自治体からのお金が出ないからです。家族や身内が出してくれる場合を除いては、通うことは難しいです。


そのようにして、皆、公立一本ということになります。施設は、高校に進学しない場合、18歳未満であっても退所しなければいけません。

満足な勉強ができない中で身につけた学力で、絶対安全圏の高校を選ばなくてはいけません。私自身は、塾で見積もられた偏差値より10以上下の高校を選んで、そこに合格・進学しました。(進学した高校ではその後、国語のテストで学年1位を取りました。)



現在の日本の児童養護施設は、生活面でも、教育面でも、不足している部分がたくさんあります。そしてその解決は、現行の法律では難しいです。(現にできていない実情があります。)


高校卒業は何年か前ですが、今でも、(俗に言う)頭のいい人と接すると、いいなあ、楽だなあ。と思います。それに、(言い方は適切ではないかもしれませんが、)民度が違う。その水準を高めるという意味でも、施設や福祉を、なおざりにしてはいけないと思います。

メンタルケア

こんばんは。



最近、ある人に、

「(あなたを)正しく理解したい。」

と、言われました。



その言葉を聞いた時に、私は、〔正しく理解〕というものはないのではないか?と思いました。あるのは、《自分なりの》理解や解釈だけです。



たとえば腹痛。誰かが、お腹がいたいと言ったときに、その痛みを感じることはもちろんできません。思い出そうにも、自分が体験したことのある痛みを想像することしかできないでしょう。別の個体である限り、同じように感じることも、ましてや理解することも、不可能です。


それでは、その痛みには手をつけずに、放ったらかしでいいでしょうか。

そうではないと、私は思います。


では、どうすればいいでしょうか?




想像力が必要です。


なにができるわけではなくても、近い気持ちや痛みを知っていれば、似たような痛みを知る者として、温かく接することができるのではないでしょうか。(逆にきつく当たってしまう人も、稀にいますが)



想像力には、圧倒的に経験が必要です。体験として自分のものとできれば一番良いのですが、それはなかなかむずかしい。知りたいと思った相手がなかなか自分を出さない場合には、時間がかかります。生身の人間は、思う通りには動きません。



そんな時に私がオススメするのは、【読書】です。


読書とは言っても、本をただ流し読みをするのではなく、登場人物を、自分や知人に置き換えながら読むといいです。その場合は、問題提起型のノンフィクションなどよりも、小説がいいでしょう。フィクションだからと言って、リアリティがないわけではありません。また、なかなか想像できないような場面があったとしても、自分の頭のなかでひねり出すことによって、想像力の幅が広がります。たとえば、テレビの情報は、どうしても受け身になってしまいがちです。咀嚼しようとしたら、次の話題が出てきてしまう。これでは、鍛えられるものも鍛えられません。


対して、本を読むというのは能動的ではありますが、自分のペースで進めることができます。“時間がない”   “忙しい”という人がいますが、あてのないネットサーフィン、受け身で見ていたらいつの間にか時間が経ってしまうSNSの投稿よりも、読書の方が、ためになると思います。活字が苦手な方には、エッセイをオススメします。最近では、写真を添えて書かれているものも多くあります。



身近な人や物、太刀打ちできない世界に対しての愚痴で日々を埋め尽くしてしまうくらいなら、本という、完結している物語を楽しむことも、いいかもしれません。


また、自分や周りに置き換えることによって、疑似体験をすることができます。それによって鍛えられていくものが、はじめに挙げた、《想像力》です。


完璧にわかることはできなくても、寄り添うことくらいはできるかもしれない。それに、人にしてあげた親切は、巡り巡って自分のところに還ってくるものです。それも何倍にもなって。



ちなみに私は最近、勉強も兼ねて、一日に一冊以上は本を読んでいます。ペースは人それぞれですが、途中で区切ってまた読んだときに、内容を思い出すプロセスを省きたくて、なるべく一気に読むようにしています。


もともと読書が好きだったため、幼児のころから本は読んでいましたが、大学生である今でも、飽きることはありません。笑   これまでに読んできた本の数が、そのまま人生の豊かさになっているような気さえします。それに、想像力どころか、洞察力が身につくことだってあります。


人を知るためには、自分を知ることもそうですが、その前に、視野や思考の幅を広げて、人間力をつけましょう。



愚痴で世界が変わるでしょうか。変わったとしても、そんな世界はまたすぐに壊れてしまいます。もっと恐ろしいのは、変わらなかったとき。不条理に対して愚痴を言っただけなのに、自分から人が離れていきます。そんな切ない時間は、できることなら、ない方がいい。

それにシンプルに、気持ちのいい人生を送りたいじゃないですか。人を嫌いになるより、自分を好きになれたらいい。


人間は弱いですが、そんな弱い人間を、私たちは生きていかなければいけません。誰かと助け合いながら。


この記事を読んでくださったあなたの人生が、豊かなものとなりますように。そんな気持ちで、今回は書きました。



また更新します。

番外編

こんばんは。お久しぶりです。

このブログ主である私ですが、最近では、はやく結婚したいなあ。と、思っています。(笑)

というのも、家族が欲しいなあ。と。 
けれどもう心は冷めてしまっているので、恋愛というプロセスは踏みたくないなあとも思います。婚活パーティーが適当でしょうか。
施設出身者は孤独だと思います。

様々な生活形態を経験してきて、人というのは、一人では生きていけないと思いました。そして私には残念ながら、『家族』と呼べる人がいないので、そのような存在をつくらないと、自分の中から人間らしさのようなものが欠落してしまうのではないかと思いました。
また、福祉について考える人間としては、少子化に貢献するようなことはしたくないので、子どもは2人以上ほしいです。男性でも女性でも、35歳以上は妊娠しにくいとも聞くので、早いに越したことはないと思います。

これまで、死にたくなったこともあります。たくさん傷ついて、馬鹿のように信じてはまた裏切られ、人を信用するとか、心を寄せるとか、生きていること自体がバカバカしく思えるようなこともありました。高校生の頃、どうせ死ぬなら、やりたいこと、やれる事をやってからにしようと思いとどまって、なんだかんだ生きているような今です。

最近、大学で受けた道徳のような講義で、『自分にとって一番大切なものは?』という教授の問いに、ほとんどの生徒が、《家族》と答えていました。施設というものを知る身としては、胸の痛む話です。

先ほど、出産の希望を少し書きましたが、無責任な出産はもってのほかですし、親になるのであれば、自身の人間力というか、器も広くするべきだと思います。それができないのであれば、産まない方がいいとさえ思います。
子どもももちろんですが、そんな親、大人を支える社会が、もっとあたたかいものになればと思っています。自分にできることが少なくても、例えば、荒んだ心を人に向けないとか、自分の世話を自分でするところからでもいいのではないでしょうか?
また、自分ではどうにもできなくなったときに、支えとなる公的サービスがあれば、尚良いのかなと思います。周りに頼れるような人がいればそれが一番です。しかし、現代の社会では、人と人との距離が遠いこともまた事実ではないでしょうか。

多くの人が優しさを分け合える社会を願うばかりです。

また更新します。

人との繋がり

こんばんは。お久しぶりです。


先日、私の講演を、予定は合わなかったけれど、聴きたかったと言ってきてくださった方と、お話をしました。


その方は、児童養護についてはなにも知らず、どちらかと言うと私自身に興味を持ってくれていたようでしたが、話をしていくうちに、「学期中にあと20回くらいは講演会した方がいいと思うよ。それが、この学校の生徒のためにもなると思う。」

と言ってくださいました。


私自身、高い高い目標を掲げてはいますが、実現するための道は地道に歩んでいくしかありません。でもそれが、他の人の活力にも繋がると聞いて、励まされました。

また、施設出身者の大学進学率が、全国平均に比べて5分の1程度という中で、進学した意味をまた一つ、見つけることができたような気がします。


福祉は、機械に取って代わることはできません。その分野を選んだからこそ、周りの人の声にも耳を傾けることができるようでないと、社会を豊かにしていくことは難しいと思います。正論を言うことが正解ではないですし、正当に訴えても変わりにくいのが、いまの日本の現状ではないでしょうか。

引き続き、情報発信を続けていきたいと思います。


また、余裕と優しさを忘れずにいたいと思った一件でもありました。

安住からの発展はなく、挑戦し続けることもまた、人が生きることの意味なのかなと思います。


諦めるよりもまず行動を。

コメント、お待ちしております。

講演会後記

こんばんは。


今日は、通っている大学で児童養護についての講演会をしました。初めてということで、時間は短く、話したいことをすべて話せたわけではありませんでしたが、「ありがとう」という言葉や、「私がちょうど知りたかったことだったの!」という声かけをもらうことができました。

また、少なからず知ってもらえたことで、今後の可能性が広がっていくのではないかと思っています。


周知がされていない以上、今回のように、講演会という形ででも、情報発信を続ける必要があると感じました。ブログでの発信もそうです。


未来への拍車をかけていきながら、これからもさらに活動していきます。


よろしくお願いします。

動機

いつも、「児童福祉系の事業をやりたい。」と言うと、「どうして?」とか、「子どもすきなの?」などと言われます。どうして?きっかけは?という質問に対しては、長くなってしまうため、その場では流してしまいがちです。子どもは、好きでも嫌いでも。といった感じです。


私自身、自分が児童養護施設で長期間生活するなんて、考えたこともありませんでした。しかし、結果として6年間いました。人生にはなにが起こるかわからないな、と、つくづく思います。

施設に入っていなかったら…と考えることもありました。もしもあのまま一般家庭で育っていたなら、どんな未来が待っていたんだろう、と。


いくら考えても過去は過去であり、変えることはできません。いまを生きるか、未来のために生きることしか、私たちには残されていません。


また、どんなに真剣に人の話を聞いたところで、自らが経験していなければ、共感することはできないでしょう。その相手を慮ることはできても、その痛みがわかることはありません。

〈思いやり〉というものがあるならば、分かり合えない両者は、お互いに苦しいのではないかと思います。

弱くて弱くて仕方がないけれど、同じ痛みを持つ人を探してしまう。わからない感覚ではありません。


それでも私が生きていることを残しておきたい。こんなに強い『生』の意思が、自分の中に残っていることに驚きます。家族と離れ、友人と離れ、自分はこんなに寂しいのに、私が見ている世界は、私がいなくても回っていく。

そんな現実を見せつけられてこそ、全てを吹っ切ることができるのかもしれません。

失うものがない人は強いと思います。


また更新します。