児童養護施設出身大学生

よろしくお願いします。 いつもありがとうございます。

家族って変えられる?また信用ってできる?

こんばんは。お久しぶりです。


今回は、児童の目線からの、人に対する信用度について、書いていきます。



児童養護施設に在所する児童には、各個人に、児童福祉司、児童心理司、施設の担当職員が、それぞれつきます。

児童福祉司と児童心理司は、児童相談所に所属する担当職員、施設の担当職員は、そのまま、施設での児童の担当職員と、認識してください。


児童相談所でも、施設でも、年度末(3月)を区切りとして、職員の人事が決められたり、異動があります。


立場や役割は違えど、それぞれの職員は、子どもにとっては親代わり(もしくは家族と繋いでくれるもの・自立の助っ人)です。


そんな職員が、年に一度の人事で変わったり、退職していったりします。短ければ1年です。また、誰か一人であればまだいい方ですが、児童福祉司、児童心理司、施設職員と、全てが変わってしまう場合もあります。いくら引き継ぎがされているとはいえ、多少なりとも不足は出てきます。全てを委ねていた子どもからしてみれば、たまったのものではありません。






想像してみてください。


年に一度、家族を変えられますか?


そうではない場合でも、毎年毎年、自分のそれまでの経過や現状を、適切な言葉で伝わるように、各方面の職員に伝えることが、果たしてできるでしょうか。

正直私は、この上ないほど面倒くさかったです。


職員が変わることそれ自体は、私にとっては耐えうるものでしたが(職員によって状況が好転したようなことも無かったため)、再三再四伝えたことを、また一から説明するというのは、呆れを通り越して、無気力になるほどのものでした。

結果が見えない、無いものに対して傾ける気持ちは、年を追うごとに、薄くなっていきました。

また、いずれ自分の元を離れる、もしくは自分が(退所等で)離れる、そんな未来が見える相手に対して、心を開くことができるでしょうか。そんな境遇の中でも、毎度毎度、自らを開示して、間違って伝達されてしまった情報を修正しながら、全てを委ねた相手が、やがて数年後には離れていく。人に対する信用、心の開き具合がどうなるか、想像に難くないと思います。




自分の味方は自分だけでした。誰にも心を開けずに。しかし、そこで諦めたり、手放したりしてしまっても、家族に対して不的確な意思の伝達をされて、それこそほんとうに、待っているものは孤独になってしまう。(施設にいる子どもの大半には家族がいることは、過去の記事を読んでいただければと思います。)

地道に指摘・修正していく作業を、うんざりするほどやりました。



そしてそんな話を、同年代の一般家庭の無邪気に笑う子たちに理解してもらおうなどという考えは、とても出てきません。


福祉という名のもと、どれだけの孤独があったか。そして今も、あることか。


もちろん親子のコミュニケーションは、一般家庭であれ必要でしょう。家族であっても、完璧に分かり合うことはできません。


職員とのその線引き(職員として接すればいいのか、一番身近な存在、親のようなものなのか)は、難しいものがあると思います。職員にしてみれば仕事ですし。


しかし、このままで良いわけはないと思います。その子どもの、未来の在り方さえ決めかねません。


今でも正解は分かりませんが、課題の一つだと思います。