優しさを分ける方法
こんばんは。お久しぶりです。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、『優しさ』について、少し書こうと思います。
『優しさ』
これは、あなたの中にあるでしょうか?それを、外に出せているのか。自分の視点だと、答えることはできません。
親切のつもりでしたことが原因となり、相手に迷惑をかけてしまったり、人によっては、自分ではそのつもりはなかったのに、周りの人に、「優しいね。」と言われて、気づくこともあります。
私の知人が、「愛(優しさ)は、コップに貯まる水と同じなんだよ。コップに水が無ければ、誰かにあげることはできない。だからまずは自分の中を、愛で満たさないといけない。」と、言っていたことを思い出しました。
たしかに、自分を満たせていなかったとき、人に愛を与えるどころではなかったな。と、思い出しました。
じゃあ今は?と考えてみると、できているかな。と思いました。
どうしてできるようになったのか?
自分と向き合いました。
自分の強さは、それは確かに宝物です。しかし、自分の中にあるものは、それだけではありません。嫉妬や劣等感、醜い負の感情も、いろいろあると思います。
自分の中をきちんと見て、強さだけで満足するのではなく、弱い部分も認めて、それを愛していけて初めて(自己啓発は必要かと思いますが)、自分以外のなにかに、愛を向けることができるのだと思います。
人を愛せないと嘆くよりも先に、まずは、自分のことをきちんと愛してあげましょう。
ホールブレイン診断
こんばんは。
読んでいただき、ありがとうございます。
先日、ホールブレイン診断というものを、受ける機会がありました。
多くの人には、右手か左手、使いやすい、“利き手”があると思います。
ホールブレイン診断でわかるのは、
“利き脳”
です。
この診断では、右脳・左脳という分け方ではなく、4つのタイプに分類し、自分の強みを見つけていきます。
4つのタイプというのは、
論理・理性脳
堅実・計画脳
感覚・友好脳
冒険・想像脳
です。
人はそれぞれ、どの要素も持っていますが、診断結果を数値化して、一番点数の高かったものが利き脳(強み)になるそうです。
気になる私の結果は…
全脳タイプ!!
なにそれ?どのタイプなの?
私も思いました。笑
4つのタイプの数値がだいたい同じだと、「全脳タイプ」というものになるのだそうです。
このタイプの強みは、
・臨機応変に対応できる
・人間関係を上手に構築できる
・理論で考えられる
タイプの強みというか、つまり全部なのですが、全脳タイプはなかなかいないと言われました。自分も犠牲にせず、相手のことも傷つけずに立ち回れるそうです。
そうか。それはよかった。
タイプは先天的というより、後天的に変化していく場合が多いそうです。数年後にもう一度やってみたら、また違う結果になるかもしれません。
数ヶ月前には、これもまた機会に恵まれ、MBTIという、性格検査のようなものを受けました。その検査では、16のタイプに分かれます。
それを受ける目的がどこにあるのかと言うと、役に立つのです。
自分がなにに重きを置き、周囲の人に、どのような印象を与えているのか。ストレスを受けたとき、どうなるのか。
全て書くことはできませんが、親しい人や、仕事上・生活上で関わる人と一緒に受けたら、お互いを理解しやすくなるのかな。という印象を受けました。
周囲の人とのコミュニケーションが難しい、あの人とはぜったいに分かり合えない。
どうやって自分を伝えたらいいのかがわからない。
人間関係で悩む前に、自分を知ることから始めると、いいかもしれません。
あなたを幸せにできるのは、あなた自身です。
運も実力の…
こんばんは。いつも読んでいただきありがとうございます。
最近、私の書いているブログによって救われたという、嬉しい報告を頂きました。
人生には、人間には理解できない、不思議なことがあるものです。スピリチュアルのようなことを言うつもりはありませんが、『運』というものはあるのではないかと思っています。
どんなに努力をしても、結果として実を結ばないとき、真面目な人であればあるほど、絶望感を抱いてしまいがちです。もっとまっすぐな世界で生きられたら、その努力は通用したかもしれません。
しかし、私たちが今生きている世界は、残念ながら、そんなに綺麗な世界ではありません。裏切られることもあるでしょう。損をしたような気分になることもあるでしょう。
そこで泣き寝入りをして、夢なんてなかったことにしたり、希望なんて知らないフリをしてしまえば、その歪んだ世界に負けたことになってしまいます。
ほんとに苦しい時、頼ることができない人ほど、深く傷ついてしまいます。その後の人生のほとんどが、色を失くしてしまうことだってあります。
そんな人を、少しでも救いたい。減らしたい。そんな想いでブログを書いています。
一般家庭から児童養護施設に行ったこと。運良く、並み以上の知性があったこと。培われた忍耐力があったこと。洞察力があったこと。バカになる勇気があったこと。「生きること」を手放さなかったこと。一度きりのチャンスを逃さなかったこと。
「すごいね。」
よく言われます。うんざりするほどに。笑
私にとっては当たり前のことを褒められても、あまり嬉しくはないんです。笑
私は私。あなたはあなた。
それぞれの頑張り方、生き方があります。それが誰かを励ます強さとして評価してもらえるなら嬉しいですが、ものすごく努力している人から士気を奪うものになってほしくはありません。
私は、自分の能力を認めながらも、セーブをかけることがあります。一人じゃ疲れちゃうんです。どこかで止まってしまう前に、ペースダウンすることを選びます。それを自覚しているからこそ、意図せぬところでの評価を望みません。だって、全力で頑張っている人がいるから。俯瞰というか、自重というか、機を待つというか…。
救世主ぶるつもりはありませんが、私に強みがあるなら、それを活かして、誰かを助けたい。救いたい。
「生き方うまいよね。」
そう言われる私でさえ苦しかったときに差し伸べられたかった手を、誰かに差し伸べたい。
孤独を経験しないと手に入れられない強さはたしかにありますが、どうしようもない孤独な時間は、できることなら無い方がいい。
短い人生、傷を負って過ごすより、誰かを愛せたり、誰かに愛される方がいいに決まってます。好かれる方法なんて考えず、無条件に。
私だって、できることなら、みんなを抱きしめたいんです。
寂しさに震えている人、明るい未来が見えない人、もう死にたい人。恵まれた環境でも、ギャップに苦しむ人、なんでもできてしまって、人生に張り合いがない人。それはそれで、つまらないですよね。
自分を救えるのは、突き詰めていけば、自分しかいませんが、うまく生きるヒントや、それぞれの、『自分らしさ』を消さずに、この世界で生き抜く方法。悲しい日々を超えて、強く笑える自分になる。そこに至るためのマインド、自分の世話の仕方や機嫌のとり方。
まだ20歳そこそこの学生でも、語れるものがないわけじゃないんです。年配の方を励ませることだってあります。
身も蓋もない話ですが、運のよさとしか言いようがないことも、私の場合には、多々ありました。
私はその運のよさで生きやすくなって、余裕を持って生活することができてます。
そのエッセンスを意図的に、自覚せずに、色々な方法で届けていきたい。このブログも、その意味も含めてやっている側面もあります。
少しでも誰かの役に立つこと。価値をきちんと生み出すこと。適切な報酬を受けること。
そのように、人と人は関わっていくのではないでしょうか。
運のよさは、宇宙かどこかからの期待値なのかなと思っています。だからこそ、自分だけではなく、それを持たない人に、還元しなければいけない。そういう意識で生きています。
私の人生に意味を持たせてくれる人たちが救われるなら、それほど嬉しいことはありません。
嬉しいなあ。
家族って変えられる?また信用ってできる?
こんばんは。お久しぶりです。
今回は、児童の目線からの、人に対する信用度について、書いていきます。
児童養護施設に在所する児童には、各個人に、児童福祉司、児童心理司、施設の担当職員が、それぞれつきます。
児童福祉司と児童心理司は、児童相談所に所属する担当職員、施設の担当職員は、そのまま、施設での児童の担当職員と、認識してください。
児童相談所でも、施設でも、年度末(3月)を区切りとして、職員の人事が決められたり、異動があります。
立場や役割は違えど、それぞれの職員は、子どもにとっては親代わり(もしくは家族と繋いでくれるもの・自立の助っ人)です。
そんな職員が、年に一度の人事で変わったり、退職していったりします。短ければ1年です。また、誰か一人であればまだいい方ですが、児童福祉司、児童心理司、施設職員と、全てが変わってしまう場合もあります。いくら引き継ぎがされているとはいえ、多少なりとも不足は出てきます。全てを委ねていた子どもからしてみれば、たまったのものではありません。
想像してみてください。
年に一度、家族を変えられますか?
そうではない場合でも、毎年毎年、自分のそれまでの経過や現状を、適切な言葉で伝わるように、各方面の職員に伝えることが、果たしてできるでしょうか。
正直私は、この上ないほど面倒くさかったです。
職員が変わることそれ自体は、私にとっては耐えうるものでしたが(職員によって状況が好転したようなことも無かったため)、再三再四伝えたことを、また一から説明するというのは、呆れを通り越して、無気力になるほどのものでした。
結果が見えない、無いものに対して傾ける気持ちは、年を追うごとに、薄くなっていきました。
また、いずれ自分の元を離れる、もしくは自分が(退所等で)離れる、そんな未来が見える相手に対して、心を開くことができるでしょうか。そんな境遇の中でも、毎度毎度、自らを開示して、間違って伝達されてしまった情報を修正しながら、全てを委ねた相手が、やがて数年後には離れていく。人に対する信用、心の開き具合がどうなるか、想像に難くないと思います。
自分の味方は自分だけでした。誰にも心を開けずに。しかし、そこで諦めたり、手放したりしてしまっても、家族に対して不的確な意思の伝達をされて、それこそほんとうに、待っているものは孤独になってしまう。(施設にいる子どもの大半には家族がいることは、過去の記事を読んでいただければと思います。)
地道に指摘・修正していく作業を、うんざりするほどやりました。
そしてそんな話を、同年代の一般家庭の無邪気に笑う子たちに理解してもらおうなどという考えは、とても出てきません。
福祉という名のもと、どれだけの孤独があったか。そして今も、あることか。
もちろん親子のコミュニケーションは、一般家庭であれ必要でしょう。家族であっても、完璧に分かり合うことはできません。
職員とのその線引き(職員として接すればいいのか、一番身近な存在、親のようなものなのか)は、難しいものがあると思います。職員にしてみれば仕事ですし。
しかし、このままで良いわけはないと思います。その子どもの、未来の在り方さえ決めかねません。
今でも正解は分かりませんが、課題の一つだと思います。
変化 -続き-
こんばんは。お久しぶりです。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
さて、前回の記事『変化』で、次回に続けると書きました。
その回では、やりたいことを全部やることを提案しました。
でも、やりたいことがないときにはどうすればいいんだろう。そんなことを考えたときが、私にもありました。
その答えは、なかなか出てきませんでした。
大切なものは、諦めるしかなかったから。
やりたいことがない。私のそれは、意欲が無い、湧いてもこない状況でした。
本来は感謝するべき『生』なのかもしれませんが、当時の私は、どうせ生きているなら。と、思いました。
〈どうせ〉生きているなら、生きたくはなくても、ここに存在してしまっているのなら…。
誰かのためや、何かのためになることをした方が、よっぽどいいと思いました。
やりたいことをやるというのは、なにも、面白半分に迷惑をかけたり、犯罪まがいのことをするということではありません。ただシンプルに、やり残したことがあるという状態が、良くないと思ったのです。なんなら、〔なぜ生きているのか〕を考え続ける人生でもいいのではないかと思いました。だって、何十年、何百年後に、同じ疑問をぶつかった人の助けになるかもしれない。もしかしたら、もしかするかも。
そこまで考える人は、その時点で、失うものも特にないと思います。極論、なにも引っかかること、気になることがないのであれば、死んでいいと思います。
だけどぜったい、後悔だけはしないでください。
不条理に対して、純粋さをぶつけなかったことを。
負けたからといって、もういいよと、興味がなくなったフリをしたことを。
大切にしたい人と出会ったとき、自分を大切にしなかったことを。
まだできることがあるんじゃないんですか。
なんて、鼓舞したい気持ちもありますが、余裕がない人には、そんなメッセージを受け取れるだけの余裕も、もちろんありません。
できることなら私が、寂しさを抱えている人をみんな、抱きしめたい。人を傷つける人を責めるのではなく、そんな人さえ包みたい。
そんなことを思いながら、現実では、まだまだです。それでも、『まだ早い』とか、『実績もないから…』と言って、自分に言い聞かせるようにして、逃げたくはありません。今は、挑戦と失敗、そしてたまに成功を、繰り返しています。そうでもしないと、前に進めません。つまらない人生、生き甲斐のない自分なら、それこそ本当に《死んだ方がマシ》です。
もちろん、今が幸せな人は、その幸せを続けてください。周りにもそれを伝染させる勢いで。
けれど、自分の足で立つだけで精一杯な人もいるでしょう。誰かの手を借りないと生きられない人も、いるかもしれません。
幸か不幸か私は、人生の消費の仕方を見つけました。感謝かはわかりませんが、自分が生きることの意味を見出すことができました。
死にたくて生まれてくる人っていないじゃないですか。
どこをどう辿ったのか、私は結局、幼い頃に願ったことを、また願うようになりました。笑
生まれたことにも、生きていることにも、意味はあるんだと思います。このブログをあなたが読んでいることにもまた意味があるなら、それほど嬉しいことはありません。
コメント、お待ちしております。
変化
こんばんは。いつも読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、私の中での変化について、書こうと思います。
私は、児童相談所や、児童養護施設で生活したことによって、結果的に、誰のことも信じられなくなりました。
頼みの綱であるはずの、福祉士や心理士の言動によって、幼かったまっすぐな心は傷つけられ、施設での暮らしは、現実を見れば見るほど、悲惨でした。ここにいる子どもたちの未来に希望はあるのかと、想像を巡らせました。
かろうじて生きても、苦しみながら、希望のない人生を送り続ける意味はあるのだろうか。と思いました。今でも思っています。
それでも生きなければいけないほどの理由がどこにあるのか。頑張れなどと言われても、それまでに頑張って頑張って、どうにか生きてきて、もう頑張る気力なんて残っていない時に、どうすればいいのか。そんな疑問を口に出せたら、まだ生き易かったのかもしれません。
最近、人との関係は大事だなと思いました。
もちろん、人を信用することは、簡単ではありません。私は、人を信じることは、同時に、また裏切られる覚悟をすることだと思っています。
しかし、周りにいてくれる人、少しでも、心をほどいてくれる人のおかげで、少しずつ、ほんとうにゆっくりでも、自分を出すことができました。そうやって関わっていきながら、信頼関係ができあがっていくものなのです。
いまの世の中で、傷ついたことがない人なんてそうそういません。中には、もう立ち直ることができないほどの傷を負う人もいます。優しい人ほど、傷ついてしまうこともまた、事実かもしれません。
そんな人に、生きてほしいというのは、言ってしまえば、無責任です。壁にぶつかるたびに、もうやめてしまえと思ってしまいます。そんな人に、生きてほしいだとか、頑張れとか、そのような言葉は、むしろ酷です。じゃあ死ねば。という言葉も、何の気なしに放っていい言葉ではありません。
頑張れないときにどうしようか、私からの提案として…
やりたいことを全部やる!
はい。どうせ100年経ったら、私たちみんな死んでます。金持ちでも、貧乏でも、好きでも、嫌いでも。
どうせ死ぬのであれば、心置きなく、できることをやりきってからの方がいいじゃないですか。
なんて思いながら、そんな中で、見えてくるものもあります。見てくれる人もいます。
後悔を残しながら、悲しみながら死ぬなんて、私は嫌です。誰でもそうだと思います。
一つの記事では長くなってしまうため、次回の記事に続けますが、感想やコメント、応援や支援は、いつでも受け付けております。(笑)
また次回、お会いしましょう。